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NIHONN

国号 [編集]
日本


日本の日の出「日本国」という国号は、日本列島東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられる。憲法の表題に「日本国憲法」や「大日本帝国憲法」と示されているが、国号を「日本国」と直接かつ明確に規定した法令は、存在しない。

由来 [編集]
「日本」の国号が成立する以前、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称されていたが、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになった。やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「大和」「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだ。[1]「日本」という国号の成立時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。従来の遣隋使を改めた遣唐使を送り、唐との外交関係を深めていた[2]。その後、672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進めた。そして、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令へと至る。

このような情勢の中で成立した「日本」号だが、具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただ、それを推定する見解は、二説に絞られる。まず一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である[3]。これは、この治世に成立したと解される「天皇」号と同時期に「日本」号も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」号と「日本」号と両方が定められたと推測する[4][5]。もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」号が成立したとする説である[6]。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」号が定められたとしている[7]。『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[8]。

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[9]。後代に成立した『旧唐書』[10]、『新唐書』[11]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。国号の変更の事情について、『旧唐書』が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、『新唐書』が「倭が日本を併合し、国号を奪った」としている[12]。いずれにせよ、これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[13]。

『旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である[14]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行なわれた日本書紀の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[15]。

『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎず、「日本」国号の成立と無関係と考えられている[16]。

日本語での発音 [編集]
「にっぽん」もしくは「にほん」と読まれる。日本政府は、正式な読み方を明確に定めていないが、どちらでも良いとしている[17]。雅語で「ひのもと」と読むことがある[18][19]。

「日本」の国号が成立する以前、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称されていたが、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになった。やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだ。[20]

同時に、7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[21]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。平安時代の仮名表記では、促音・濁音の区別が無かったため、「ニッポン」音も「にほん」と表記された。ここから「ニホン」の読みが起こったと考えられる。しかし、日本語のハ行音は、P音→F音→H音と変化したと考えられ[22]、江戸時代以降にH音が定着したので、仮名で「にほん」と表記されたものを平安時代に「ニッポン」ないし「ニポン」と読み、やがて「ニフォン」に変化し、江戸時代の後期に「ニホン」と読むようになったと考えられる。また、平安時代に「ひのもと」とも和訓されるようになった。

室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本語小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[23]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[24]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。

その後、明治に入っても「ニッポン」「ニホン」が統一されない中、1934年(昭和9年)に文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用する、とする案を示したが、不完全に終わった。2009年(平成21年)6月30日には、政府が「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定した[17]。現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手などに「NIPPON」と描かれる一方、「NIHON」表記を用いる団体の例としては、日本ビデオ倫理協会や日本大学、日本ユニシスなどがある。なお、(国会に複数の議席を有したことのある)日本の政党名における読みは、以下の通り。

「ニッポン」



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Comentarii album • 2
AnnDr3Ea 5 January 2011  
ce e asta?:P:P
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QueenSeondeok 22 September 2010  
Nu prea inteleg :-?
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